新皇后陛下はどんな人?名前、年齢、誕生日やそのお人柄は?

令和元年が始まりましたが、日本各地で様々なイベントがあるようですね。

新しい時代の幕開けに、みんな喜びを爆発させてます。

新しく始まった令和の皇后陛下がどんなお方なのかみなさんは知っていますか?

そこで今回は新皇后陛下のプロフィールや、新皇后陛下のお人柄について触れてみたいと思います。

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新皇后陛下のプロフィール

新皇后陛下
  • 名前:皇后雅子(こうごうまさこ)
  • 旧名:小和田雅子(おわだまさこ)
  • 誕生日:1963年(昭和38年)12月9日
  • 結婚:1993年(平成5年)6月9日

1963年(昭和38年)12月9日、小和田恆・優美子夫妻の第1子(長女)として東京都港区虎ノ門にある国家公務員共済組合連合会虎の門病院にて誕生。父の恆は外交官で当時は東京大学講師であった。母の優美子はチッソ会長・江頭豊の長女で、日本ユニセフ協会(ユニセフ日本委員会)評議員。結婚前はエールフランス極東支配人秘書を務めていた。出生時は一家で世田谷区桜上水の外務省官舎に住んでいた[2]。
 父の恒が在ソ連日本大使館一等書記官に就任したため、1歳数か月からソビエト連邦・モスクワ市で過ごす。2歳の終わりごろから同国のモスクワ市立ジェツキサートNo.1127保育園に通園した。当初は慣れない言語や集団生活で泣きだすこともあったが、ロシア語もすぐに上達し、妹たちにロシア語で話し掛けたり、寝言もロシア語で言うほどだった[3]。このとき、モスクワ市のクツゾフスキー(英語版)で過ごした。1966年(昭和41年)7月、スイス連邦・ジュネーブで妹の礼子(マドレーヌ)・節子(マリー)が誕生。なお、後年優美子と生後直後の両者は同国ベルンのスイス大使公邸に滞在したため、恒と雅子だけモスクワに戻り家政婦と3人での生活を送った。
 1968年5月から父が国際連合日本政府代表部一等書記官に就任したため、アメリカ合衆国のニューヨーク州ニューヨーク市に一家で渡りブロンクス区のヘンリーハドソン・パークウェイ(英語版)という郊外で過ごした。この頃から区内のコンドミニアムに家族と引っ越し、同年9月から1年間、ニューヨーク市立第81パブリックスクール(P.S.)付属幼稚園(キンダガーデン)に通園する。1969年9月、市立第81パブリックスクール(P.S. 81-Robert J. Christen School)に入学。この頃からピアノを習い始め、またこのニューヨーク滞在期間中は補習授業校に通っていた[4]。
 1971年(昭和46年)3月、父が外務大臣秘書官事務取扱(前任は第87代内閣総理大臣小泉純一郎)に就任したため一家は日本に帰国し新宿区大久保の国家公務員官舎に移る。目黒区立原町小学校第1学年に編入し、5月には新宿区立富久小学校第2学年に編入する[5]。第67代内閣総理大臣福田赳夫次男・横手征夫一家と毎年冬になると1、2週間スキー旅行をしていた。
 皇后美智子が雙葉小学校附属幼稚園に通園していた当時の担任教師が開いた塾に通い、編入試験の勉強を一年する[6]。1972年(昭和47年)4月、世田谷区玉川田園調布の田園調布雙葉学園・田園調布雙葉小学校に編入し卒業する[注釈1]。その後、田園調布雙葉中学校に進学し、ソフトボール部を結成し活動した[7]。同高校に進学。
 1979年7月から父が在米日本大使館公使に就任したため、1985年6月までの6年間米国のマサチューセッツ州ボストン市へ移住する。
 1979年(昭和54年)より、ボストン市郊外のベルモント市にあるマサチューセッツ州立ベルモント・ハイスクールへ11年生(日本の高校2年生に相当)として転入学し2年間通学し、ソフトボール部と数学クラブに所属した。High Honor student (最優等学生)と認められ、アメリカ政府が米国全体の上位5%の生徒に贈る「ナショナル・オーナー・ソサイティー」National Honor Society(NHS)を受賞し在学中、地元紙が年に数回掲載する「成績優秀者」の欄に常に登場していた。また、ドイツ語科において、ドイツ政府運営のドイツ総領事賞及びゲーテ・インスティトゥート賞(Goethe-Institut)を受賞するなど、語学活動にも熱心だった[8]。この期間、高校(12年生)から大学1年にかけて講談社がアメリカで編集製作していた「エンサイクロペディア・オブ・ジャパン(英語版日本百科事典)」の編集を手伝う(編集責任者・板坂元)。
 1981年(昭和56年)、同ハイスクールを卒業する。
 同年、ハーバード大学経済学部に入学[9]。国際経済学専攻。恒が在ソ連特命全権公使に就任したため雅子1人を残し、一家はロシアのモスクワに引越す。在学中は、心身障害児の運動指導[10]やフランス語のサークルに参加した。また、1年時に日本文化クラブ(ジャパニーズ・カルチャー・ソサエティー)を自ら創立し、1年のときに書記を担当、2年で副会長、3年のときには会長を勤める。同大学のライシャワー教授などの著名人を招いての講演会、浮世絵や能の紹介、黒澤明監督作品などの映画上映、習字・折り紙の紹介、日本食の試食会、ダンスパーティーなど日本文化を紹介するイベントを企画していた。さらに学生評議会の広報担当もした。1年の夏休みにはドイツのゲーテ・インスティチュートで2か月滞在しドイツ語の特訓をし[11]、2年の夏休みにはフランスのグルノーブル大学のフランス語夏期講座に参加するなど外国語の活動も活発だった。
 雅子が日本で教育を受けた期間は計9年4か月であり、海外で教育を受けた期間は計9年と、若干多く日本の教育を受けたこととなる[12]。また、初等教育・中等教育(小学1年生3学期- 高校1年1学期)は日本で生活し義務教育を受けているため、厳密な意味での帰国子女ではない。小和田雅子は外務省職員の小和田恆・優美子の間に生まれました。父の恆は外交官で当時は東京大学講師であった。母の優美子はチッソ会長・江頭豊の長女で、日本ユニセフ協会(ユニセフ日本委員会)評議員。結婚前はエールフランス極東支配人秘書を務めていた。出生時は一家で世田谷区桜上水の外務省官舎に住んでいた[2]。
父の恒が在ソ連日本大使館一等書記官に就任したため、1歳数か月からソビエト連邦・モスクワ市で過ごす。2歳の終わりごろから同国のモスクワ市立ジェツキサートNo.1127保育園に通園した。当初は慣れない言語や集団生活で泣きだすこともあったが、ロシア語もすぐに上達し、妹たちにロシア語で話し掛けたり、寝言もロシア語で言うほどだった[3]。このとき、モスクワ市のクツゾフスキー(英語版)で過ごした。1966年(昭和41年)7月、スイス連邦・ジュネーブで妹の礼子(マドレーヌ)・節子(マリー)が誕生。なお、後年優美子と生後直後の両者は同国ベルンのスイス大使公邸に滞在したため、恒と雅子だけモスクワに戻り家政婦と3人での生活を送った。
1968年5月から父が国際連合日本政府代表部一等書記官に就任したため、アメリカ合衆国のニューヨーク州ニューヨーク市に一家で渡りブロンクス区のヘンリーハドソン・パークウェイ(英語版)という郊外で過ごした。この頃から区内のコンドミニアムに家族と引っ越し、同年9月から1年間、ニューヨーク市立第81パブリックスクール(P.S.)付属幼稚園(キンダガーデン)に通園する。1969年9月、市立第81パブリックスクール(P.S. 81-Robert J. Christen School)に入学。この頃からピアノを習い始め、またこのニューヨーク滞在期間中は補習授業校に通っていた[4]。
1971年(昭和46年)3月、父が外務大臣秘書官事務取扱(前任は第87代内閣総理大臣小泉純一郎)に就任したため一家は日本に帰国し新宿区大久保の国家公務員官舎に移る。目黒区立原町小学校第1学年に編入し、5月には新宿区立富久小学校第2学年に編入する[5]。第67代内閣総理大臣福田赳夫次男・横手征夫一家と毎年冬になると1、2週間スキー旅行をしていた。
皇后美智子が雙葉小学校附属幼稚園に通園していた当時の担任教師が開いた塾に通い、編入試験の勉強を一年する[6]。1972年(昭和47年)4月、世田谷区玉川田園調布の田園調布雙葉学園・田園調布雙葉小学校に編入し卒業する[注釈1]。その後、田園調布雙葉中学校に進学し、ソフトボール部を結成し活動した[7]。同高校に進学。
1979年7月から父が在米日本大使館公使に就任したため、1985年6月までの6年間米国のマサチューセッツ州ボストン市へ移住する。
1979年(昭和54年)より、ボストン市郊外のベルモント市にあるマサチューセッツ州立ベルモント・ハイスクールへ11年生(日本の高校2年生に相当)として転入学し2年間通学し、ソフトボール部と数学クラブに所属した。High Honor student (最優等学生)と認められ、アメリカ政府が米国全体の上位5%の生徒に贈る「ナショナル・オーナー・ソサイティー」National Honor Society(NHS)を受賞し在学中、地元紙が年に数回掲載する「成績優秀者」の欄に常に登場していた。また、ドイツ語科において、ドイツ政府運営のドイツ総領事賞及びゲーテ・インスティトゥート賞(Goethe-Institut)を受賞するなど、語学活動にも熱心だった[8]。この期間、高校(12年生)から大学1年にかけて講談社がアメリカで編集製作していた「エンサイクロペディア・オブ・ジャパン(英語版日本百科事典)」の編集を手伝う(編集責任者・板坂元)。
1981年(昭和56年)、同ハイスクールを卒業する。
同年、ハーバード大学経済学部に入学[9]。国際経済学専攻。恒が在ソ連特命全権公使に就任したため雅子1人を残し、一家はロシアのモスクワに引越す。在学中は、心身障害児の運動指導[10]やフランス語のサークルに参加した。また、1年時に日本文化クラブ(ジャパニーズ・カルチャー・ソサエティー)を自ら創立し、1年のときに書記を担当、2年で副会長、3年のときには会長を勤める。同大学のライシャワー教授などの著名人を招いての講演会、浮世絵や能の紹介、黒澤明監督作品などの映画上映、習字・折り紙の紹介、日本食の試食会、ダンスパーティーなど日本文化を紹介するイベントを企画していた。さらに学生評議会の広報担当もした。1年の夏休みにはドイツのゲーテ・インスティチュートで2か月滞在しドイツ語の特訓をし[11]、2年の夏休みにはフランスのグルノーブル大学のフランス語夏期講座に参加するなど外国語の活動も活発だった。
雅子が日本で教育を受けた期間は計9年4か月であり、海外で教育を受けた期間は計9年と、若干多く日本の教育を受けたこととなる[12]。また、初等教育・中等教育(小学1年生3学期- 高校1年1学期)は日本で生活し義務教育を受けているため、厳密な意味での帰国子女ではない。

引用:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/皇后雅子

ご両親もさることながら、雅子様のご経歴も凄まじいですね。

ハーバード大学をでて東大も行っていて、まさにエリート中のエリートです。

2004年より適応障害で療養されていますし、皇太子妃の頃の綺麗でおしとやかなイメージが強かったですが、実はバリキャリだったんですね!

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新皇后陛下のお人柄

雙葉の同級生からオワと呼ばれていて、小学校時代は生物部に入り、昆虫や動物が好きだったようです。

愛犬、愛猫の由莉とみー、セブンを飼ってらっしゃることからも、動物好きなことが伺えますね。

 明るく活発で、スポーツが得意だった雅子様は、中学時代に友人らとソフトボール部をつくり、中心選手として活躍していたそうです。

ここでもやはりおしとやかなイメージとは違いますよね。

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まとめ

現在少しずつ公務に復帰されていますが、御心の療養はまだ必要なのでしょう。

新天皇陛下とともに歩み、令和が素敵な時代になるのが楽しみです。

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